喜多村信節が読み解く、史料にみる「一銭剃」
Posted on | 1月 28, 2026 | No Comments
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「髪結(かみゆい)」は江戸時代に広く用いられていた職業名ですが、「一銭剃(いっせんぞり)」あるいは「一銭職(いっせんしょく)」とも呼ばれていました。
この呼称については、江戸後期の随筆『嬉遊笑覧』のなかで喜多村信節が、その出典や由来を紹介しています。前回のコラムに続いての登場となりますが、考証家・国学者としての喜多村信節の博識ぶりが、ここでもうかがえます。
『雍州府志』にみる「一銭剃」
『雍州府志(ようしゅうふし)』は、17世紀後半に歴史家・黒川道祐が著した山城国(現在の京都府南部)の地誌です。同書には、当時の京都における髪結の様子が次のように記されています。
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「おおよそ町ごとに髪結床あり、諸人はここに来て結わせる。また市中をめぐり月代を剃り銭を取る。これを一銭剃という」
この記述から、17世紀の京都では、町ごとに髪結床が存在し、また市中を巡回して月代を剃る髪結が「一銭剃」と呼ばれていたことが分かります。髪結が都市生活のなかに広く浸透していた様子が読み取れます。
喜多村信節による由来紹介
喜多村信節は『髪結株起立』のなかで、「一文銭にて髪さかやきをしたる成」と記しています。『髪結株起立』の詳細は不明ですが、内容は『一銭職由緒書』(別名『髪結由緒書』)と類似していると考えられます。
『一銭職由緒書』によれば、髪結職の祖とされる采女亮(うねめのすけ)の子孫・北小路藤七郎が徳川家康の髪を結い、その褒美として「銭一文」を拝領したことが「一銭職」の由来であるとされています。
喜多村信節の評価と批判
この由緒書について、喜多村信節は「取にたらぬ物ながら」と評し、不自然な点が多いとして批判的な姿勢を示しています。「取るに足らぬもの」とするこの評価は、後に昭和期の歴史学者・江馬務らにも受け継がれました。髪結の由緒を権威づけようとする後世の創作である可能性を、早くから見抜いていたといえるでしょう。
『元禄曽我物語』との関係
さらに喜多村信節は『嬉遊笑覧』のなかで、『元禄曽我物語』に見える「一千剃りの床に腰をかけ、月代一つ望む」という一文を紹介しています。そして、ここに登場する「一千剃り」は語呂合わせ的な表現にすぎない「ざれごと」であると解説しています。
『元禄曽我物語』は、鎌倉時代成立の『曽我物語』を元禄期に翻案した作品であり、必ずしも史実を伝えるものではありません。喜多村信節は、こうした文学作品と史料とを明確に区別しながら読み解いています。
このように喜多村信節は、地誌、由緒書、軍記物、随筆など多岐にわたる文献を自在に参照し、冷静な考証を加えています。その学者としての姿勢と博覧強記ぶりは、今日読んでもなお印象的です。

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タグ: 一銭職, 喜多村信節, 髪にまつわるエトセトラ
























