月代剃りが生んだ「髪結」職
Posted on | 12月 12, 2025 | No Comments
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江戸後期に版行された『嬉遊笑覧』(喜多村信節、文政13年/1830年)には、髪結についての記述があります。
前回取り上げた「御うちぎ」「御髪番(おぐしばん)」(https://ribiyo-news.jp/?p=48399)も『嬉遊笑覧』を参考にしましたが、平安時代の「御うちぎ」という職は、高貴な人物に仕える髪結を意味しています。

喜多村信節が「古へは民間には髪結などいふものはなく、みなみづから結へるなるべし」と指摘している通り、一般の人々は自分で、あるいは家庭内で髪を結っていたと考えられます。では髪結がいつ頃登場したのかという点について、彼は「後世便利に随ひて、さるもの出来し也」と記しています。「さるもの」とは髪結のことで、「世の中が豊かになり、民間に余裕が生まれるにつれ、髪結という職が現れた」という意味です。
髪結が庶民に広まったのは、江戸時代前期の17世紀ごろです。黎明期は戦国時代末期の16世紀末といわれていますが、市井に普及したのは17世紀に入ってからでした。その背景には「月代剃り」が深く関係しています。
月代は戦国時代には武士や一部の足軽にも行われていました。当初は「けっしき」と呼ばれる大型の毛抜き道具を使い、前頭部から頭頂部の髪を抜いて月代としていました。しかし、織田信長が剃刀による月代を推奨したことで、剃刀での月代が普及したと伝えられています。
けっしきは力任せに毛を引き抜くため誰でも扱える一方、強い痛みや出血を伴いました。剃刀であれば苦痛は少なくなりますが、セルフで行うのは難しく、けがの危険もあります。そのため、月代が習慣化するにつれ、月代剃りを専門とする髪結が増え、一銭剃り・髪結という職業が定着していきました。
髪結の仕事は、月代剃り、髷結い、顔剃りに大きく分けられますが、その起源は月代剃りにあったといえるでしょう。
*絵は、スイスの外交官、エメェ・アンベールが描いた幕末の髪結い
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