贅沢禁止令が生んだ耳かき付き簪
Posted on | 3月 13, 2026 | No Comments
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装身具にみる江戸庶民の知恵
簪(かんざし)の歴史は古く、縄文時代にまでさかのぼるといわれています。当初は装飾のためではなく、魔除けの意味をもつ呪具として、細い棒を髪に挿したことが起源とされています。
その後、大陸との交流を通じて中国からさまざまな髪飾りが伝来しました。しかし平安時代になると、女性の髪形は長い髪を垂らす垂髪(すいはつ)が主流となり、簪は一時的にほとんど用いられなくなりました。
簪の語源には諸説ありますが、「髪に挿す」ことから「かみさし」が転じて「かんざし」になったという説があります。この説では「髪」が「神」に通じるとも考えられ、簪がもともと魔除けの意味をもつ道具であったという起源とも符合します。
簪が広く用いられるようになったのは江戸時代です。17世紀後半、日本髪が結われるようになると、簪は女性の装身具として急速に普及しました。素材も多様化し、鉄製や木製(つげ・桐など)から、鼈甲(べっこう)や玳瑁(たいまい)、象牙(ぞうげ)、さらには金銀の細工を施した豪華なものまで作られるようになりました。

江戸時代の簪には、先端に耳かきが付いているものが多く見られます。これは幕府の奢侈(しゃし)禁止令を逃れるための工夫だったといわれています。贅沢な装飾品が取り締まりの対象となったため、「これは簪ではなく耳かきである」と見せかけることで規制を回避したというわけです。庶民の知恵の一例であり、江戸の風俗にはこのような機知が数多く見られます。実際には、掲載した写真の簪を見ると柄が短く、耳かきとしては実用的とは言いがたいものです。取り締まる側の役人も、そのあたりは半ば黙認していたと考えられます。
江戸の年代記『武江年表』(斎藤月岑)には、貞享年間(1684~1687年)の記事として、笄(こうがい)や簪に関する記述があります。しかしこれを校閲した考証学者・喜多村信節は、その内容に誤りがあると指摘しました。
『武江年表』の記述は、藤貞幹の『好古日録』(18世紀末)を引用したものですが、そこには「笄は貞享年間に作られ、十数年で全国に広まった」とあります。これに対し喜多村信節は、「ここでいう笄は簪の誤りである」と批判しています。さらに、簪に耳かきを付けたのは御厨子所預(みずしどころあずかり)の紀宗図南(号・図南老人)であり、その考案は享保年間(18世紀前半)であると論じています。
このように、耳かき付き簪の登場時期については、17世紀後半とする説と18世紀前半とする説があり、およそ半世紀ほどの差があります。風俗史の分野では引用文献によって説が分かれることが少なくなく、厳密な断定は難しいものです。とはいえ、500年近く前の生活風俗を扱う研究では、半世紀ほどの違いは大きな問題ではないともいえるでしょう。
なお、現代の簪には耳かきが付いているものはほとんど見られません。江戸時代のように贅沢を禁じる法令があるわけではないため、そのような工夫をする必要もなくなったからです。
ちなみに、喜多村信節は考証学に厳格な態度で知られた人物でした。髪結職の由来を記した『一銭職由緒書』についても「取るに足らぬもの」と切り捨てています。今回紹介した『武江年表』に対しても、『好古日録』の記述を「笑うべし」と批判しており、その学問姿勢はきわめて容赦のないものでした。
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