丁髷は、日本独特の髪型の元祖
Posted on | 10月 31, 2024 | No Comments
丁髷(ちょんまげ)の「ちょん」は、いうまでもなく「ゝ」(ちょん)の字形によるものです。髷を二つ折りにした形状がこの字に似ているからです。
もともとの髷は冠を支えるための「立髻」(たてもとどり)、別名「冠下の髻」ともいいます。頭頂部に直上に固く結び、その上から冠を被せ、冠を固定していました。
飛鳥時代に大陸から伝わった髪風俗です。平安時代には冠と烏帽子が高貴な成年男子の髪風俗になります。この文化は殿上人だけでなく広く庶民にまでいきわたりました。冠・烏帽子の着用が常態となり、頭を晒すのは恥とされるなど、わが国特有の髪文化として定着しました。
この文化に変化が訪れるのは室町時代後半、戦乱の世になってからです。武士だけでなく農民までも戦いに動員され、兜を被って戦闘します。
立髻から二つ折りの丁髷になったのは、兜装着との関連性が高そうです。
兜に立髻は不都合です。そこで髻を解きザンバラ髪にして兜を被った。ザンバラ髪では収まりが悪く蒸れやすい。そこで髷を二つ折りにして、その上から兜を被るようになった。
戦場では兜を被りますが、そうでないときは兜を脱いで露頂にすることが多くなり、露頂の風潮が広がり、長年続いた冠・烏帽子の文化は廃れていった、というのが当欄の推論です。
完全に冠、烏帽子の文化がなくなったかというと、そんなことはなく、戦国時代、江戸時代になっても続きます。武家の被る侍烏帽子は低く、丁髷でも治まるような形状のものを装着するようになります。丁髷に合わせて作った烏帽子かもしれません。
江戸時代になると丁髷は成年男子の定番になります。
江戸時代当初は、髱(タボ、後頭部)は長めで厚く、月代を剃らない成人男子もいましたが、徐々に髱は上がり、ひっ詰めるようになります。時代劇でみられる丁髷姿は江戸時代後期、文化文政のころ以降の髷姿といえます。
また侍と町人では髱の厚みが違ったりと、多様な髷姿がありました。ひとことで丁髷といいますが、丁髷にも変遷の歴史があり、多様化していました。
また戦国末期から江戸時代にかけて男装をする遊女らがいて、丁髷を真似ます。出雲の阿国はその一人です。遊女の男装、男髷から派生したのが島田髷、丸髷(勝山髷)といえます。唐輪から派生した兵庫髷、また利便性のある笄髷は別の系統になりますが、日本髪の中核をなすのが島田髷、丸髷です。
つまり丁髷は、日本独特の髪型の元祖ともいえる存在といえます。
丁髷・日本髪は、江戸時代を代表する日本文化の一つですが、元をたどれば大陸に行き着いてしまいます。しかし、これは髪型だけに限ったことではありません。日本人の主食の米作もそうですし、仏教、儒教、文字もそうです。日本の文化は大陸由来が多い。渡来した大陸文化を独自にアレンジして磨き上げたところに日本人の知恵があり、それが日本文化そのものといえます。
しかし男子の丁髷は明治の断髪令で廃れ、女子の日本髪は昭和のなかごろには過去のものになってしまいました。
令和のいま、芸妓衆は日本髪のカツラを被って芸を披露しています。丁髷は相撲界に伝統文化のひとつとして残っているだけです。
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