婦人束髪会の思わぬ影響
Posted on | 5月 1, 2021 | No Comments
外科医・渡部鼎さんといえば、一般には野口英世さんの左手を手術して完全とはいえないまでも回復した人物として知られています。この手術によって野口さんは医師を目指し、渡辺さんの医院の書生になりました。
その渡部鼎さん、理美容業界では、明治18年に婦人束髪会を設立した人として知られています。同郷・福島県出身の石川映作さんと二人で設立しました。石川さんはアダム・スミスの『国富論』を翻訳した経済記者です。
この福島県の二人が起こした婦人束髪会は、その設立主旨で日本髪を糾弾し、洋髪をすすめます。いわく、日本髪は、不便で苦痛である、不衛生である、不経済で生活に支障をきたす、などを列記しています。
渡部さんは講演活動や新聞への寄稿で、会の主旨を展開しますが、活動そのもは2年後に渡部さんが渡米したことで停滞します。婦人束髪会の活動で、当時の一部の女子学生の髪型は洋風になりましたし、その後庇髪の流行をもたらすなど、日本の女性の髪型に影響を与えました。そして、もうひとつの影響が、髪結職をみる世間の目を変えたことです。
日本髪を否定するあまり、髪結職を賤職視する風潮を生み出したのです。明治後期から大正、戦前の昭和に美容師になった人の話を聞くと、たいていの人が美容師になることを親や先生から反対されたと語っています。立志伝の話なので大袈裟に語っているのかと思いましたが、そうではなさそうです。
明治の中ごろまでは、髪結職につく女性に対して好意的な目で見ていた世間でした。当時、女性の職業といえば女工や店員、学校の先生などがありましたが、女髪結と産婆は技術が必要な専門職で、しかも稼げる職業でした。新聞などをみても、数少ない女性の職業の一つとして評価しています。少なくとも賤職視してはいません。
それが明治後期になると、汚れ仕事として賤職視した記事が多くなります。
渡部鼎さんは知識層の人たちを相手に積極的に講演活動をしていたので、その講演を聞いた人たちが髪結職を賤職視したようです。
もっとも婦人束髪会の設立主旨は、髪結職に対しての非難はしていません。しかし、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、のたとえと同じで、日本髪憎けりゃ、女髪結憎い、になってしまったようです。いまでは考えられませんが、大正期から昭和期に活躍した美容師の自伝や半世紀を読むと、賤職視された屈辱のなかから、美容師として立志した経緯が語られています。
渡部鼎さんは、婦人の地位向上や社会参加を目指して、婦人束髪会の活動を始めたといわれていますが、思わぬ副作用があったのでした。
ところで、渡部鼎さん、渡辺や渡邉と表記する例もありますが、会津若松の野口英世通りにある、渡部さんの医院跡の資料館では渡部と表記されています。渡部鼎で間違いありません。
【参考資料】
婦人束髪会を起す主旨
http://www.beauty-medix.com/pdf/ac_sokuhatsukai.pdf
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