月代に見る武士と足軽の姿 信長が広めた「強さ」の象徴
Posted on | 10月 13, 2025 | No Comments
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日本の古い風俗文化の一つ、月代(さかやき)は織田信長が推奨したことによって広まったとされています。
平安時代後期の源平のころには、頭部の蒸れを防ぐために月代をする武士が現れましたが、当時は「けっしき」という大型の毛抜きを使って頭頂部の毛髪を抜いていたため、出血や苦痛を伴い、一般的ではなかったようです。織田信長は剃刀で剃ることを推奨し、月代を広めたのです。つまり、月代が広まったのは戦国時代末期ということになります。

真如堂縁起絵巻(上、鈴聲山真正極楽寺〈真如堂〉蔵)には、応仁・文明の乱以降の戦乱で活躍する足軽の姿が描かれています。
この絵巻は大永4年(1524年)に完成したと伝えられています(真如堂)。この絵巻より半世紀前に著された『樵談治要(しょうだんちよう)』(一条兼良)にも、戦場で戦う足軽の記述が見られ、当時すでに足軽の存在が一般的であったことがわかります。
足軽は武士とは異なり雇われ兵で、正規の武士に比べて軽装であり、主に集団戦法で戦っていました。下層の都市民や農民、貧しい地方から流入してきた者が多く、時には放火や略奪を行うこともあったとされています。
注目すべきは、絵巻に描かれた足軽の多くが月代をしていることです。鎧兜や折烏帽子を身に着けた武士については、この絵から月代の有無を判別できませんが、月代をしていた可能性もあります。月代は本来、兜を被る武士が蒸れやのぼせを避けるために剃ったとされますが、兜を着用しない足軽までもが月代をしている様子が絵巻から読み取れます。
この絵巻が当時の実態を反映しているとすれば、16世紀にはすでに剃刀による月代が存在していた可能性があります。戦国時代は、鎌倉時代までの戦乱とは異なり、民衆を巻き込んだ総力戦でした。足軽のほかに僧兵も多く、仏具としての剃刀が僧侶によってもたらされた可能性も考えられます。
一方で、足軽は兜を被ることは少なく、主に陣笠を使用していました。陣笠は密閉性が低いため蒸れることは少なく、敵味方を識別するために装着していました。鉄製のものもありましたが、皮や和紙で作られた軽量なものが主流だったとされています。
足軽にとって月代は機能的には不要と思われますが、絵巻に登場する足軽の多くが月代であることから、見た目の「強さ」や「威勢の良さ」を演出するためだった可能性もあります。江戸時代前期には、旗本奴や町奴などが大きく月代を剃り込んだ「大額(おおびたい)」で登場しますが、これもまた見た目の強さを象徴する髪型だったようです。
また、戦国時代後期に描かれた武田家や徳川家などの「武将図」を見ると、そこに描かれている武将の多くは大月代をしています。こうして見ると、大月代は強さを象徴するものだったのかもしれません。そして、戦国時代には広く行われていた可能性が高い。
*絵巻は国会図書館デジタルアーカイブスより
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